『海風 <うみかぜ>』
(作・myura)




 すうっと、海風が通り過ぎた。

 鮮血が伝う頬を、海風は皮肉なほどに優しく触れてくる。
 複数の銃弾に打ち抜かれ、コックピットのウインドシールドはもはや視界を遮る壁でしかなかった。
 僕を乗せて、僕を支えるように辛うじて飛び続けるプテラスも、もう限界だった。
 四方八方、見渡す限り、青々とした宏遠な海が広がっている。
 降りられそうな場所など、あるはずがない。
 着水しようにも、原型をとどめていることだけでも不思議なこの機体では、とても持ちこたえられない。
 脱出装置も―――使い物にならないだろう。
 ここまでするか、と文句を言いたくなるほど徹底的に破壊された計器が、その事を雄弁に物語っていた。
 それに比例して、プテラスの体には無数の弾痕が刻み付けられていた。
 それでも尚、そんな身体で、時おり震えながらも、健気に耐え忍んでいる。
 プテラス自身にも、そんな努力ももうあまり意味を成さないことはわかっているのかもしれない。
 しかし、それでもプテラスは飛び続けた。
 少しでも、ほんの少しでも。
 僕を落とすまいと。
 その光景は、ひどく意地らしくて、痛々しかった。
 僕も左肩と右腿に、そして脇腹に計三発の銃弾を浴びた。
 動かそうとしてみるが、無駄な努力だった。
 四肢のうち銃弾を受けた部位は、恐らく、靭帯が切れてしまっている。
 もはや操縦すらままならなかった。
 心臓が波打つごとに訪れる激痛に何とか耐えながら、ただじっと、眼前に広がる海と空を眺めるだけが精一杯だった。
 そんな僕を、海風はまるで慰めているかのように優しく、撫でてゆく。
 時速数百キロという速度で飛んでいるにもかかわらず、銃弾によって強引に開けられ、広げられた風穴から海風は滑らかに吹き込み、コックピットの中を快い塩の香りで包み込む。
 ひどく丁寧に、そして、柔らかく。
 それらは今の僕にとっては残酷なことなのかもしれなかったが、どうしてか、同時にそれらは涼やかで、ひどく心地良かった。

 幼かった頃、この蒼い、澄み切った蒼空のような色のプテラスが大好きだった。
たまに、家の遥か上空を、大きな翼を広げて誇らしげに飛ぶその雄姿は、何より僕を楽しませてくれた。
 誕生日に親に買ってもらったセルロイド製のおもちゃを、よく頭の上にかかげて飛ばす真似をして走り回り、転んで壊すまで遊んだものだ。

 そんな蒼空色のプテラスに憧れて―――

 刹那、キィィンという、耳を劈くような高音が聞こえてきた。
 空気を切り裂く音と、エンジンの機動音が混ざり合った音。
 うるさいが、聞き慣れた音。
 音は、徐々に近づいてくる。
 ―――あぁ・・・僕はまた・・・大切なものを壊してしまう・・・。
 段々とぼやけてくる視界を気にすることもなく、辛うじて動く右腕に、今出すことの出来る渾身の力込めて、操縦桿を前に倒した。
 ガクン、という鈍い衝撃と共に、機体が下を向いた。
 音は通り過ぎ、徐々に離れていった。
 音はもう、近づいてくることはなかった。

 少しずつ、少しずつ、海の濃い青が迫ってくる。
 もはや何も写さなくなった両目を閉じ、僕は呟いた―――呟こうとした。
 声は出なかった。
 口からは、僅かに空気が漏れるだけだった。
 幾度か繰り返すが、漏れた空気は最後まで声に変わることはなかった。
 仕方なく、唇だけを動かすにとどめた。
 ゆっくりと、声にならない声を発する。
 今の今まで、僕の飛行機遊びに付き合ってくれた友人への、せめてもの感謝とねぎらいの言葉。

 ―――ありがとう。ご苦労さん。

 その言葉を境に、まるで今まさに糸を切られた操り人形のように、あっさりと、プテラスは崩れた。
 コックピットが大きく歪み、ウインドシールドが砕ける。
 すうっと、海風が吹き抜けた。
 一瞬にして、僕の周りを穏やかな空気が包み込んだ。
 五感のうち最後に残った一つで、涼やかな風を感じた。
 ふわり、と体が宙に浮いた。
 いや、実際は浮いていなかったのかもしれない。
 しかし、もはやそんなことはどちらでも構わなかった。
 周囲を包み込む空間は、心なしかどこか曖昧な感覚を抱かせたが、しかしそれはあまりにも澄んでいて、あまりにも優しい。
 もう見ることも、聞くことも出来なかった。
 香ることも出来なかった。
 だけど―――。

 ただ、海風が心地良かった。

 

写真提供元:「壁紙ダウンロード」


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